北の鎌倉と呼ばれた所以は別荘地

我孫子は、大正から昭和にかけて北の鎌倉と呼ばれていたそうです。

この由来はどういうところからきているのでしょうか。

因みに現代の柏は、東の渋谷と称されていますが、柏駅前にたくさんのお店が集中してることなどがその理由にあたるようです。

この理屈からすると、我孫子には、大正期の鎌倉っぽさがあったということになりますが、いかがなものでしょう。

大正期の鎌倉

鎌倉は特に中世がクローズUPされる古都として知られると言っていいと思います。歴史の教科書に源頼朝や義経が登場するのですから日本人の多くにはそういうイメージが根強いと思います。

また修学旅行で鎌倉に行く学校も多いようです。そういえば、鶴岡八幡宮の大銀杏が台風で倒れてしまったというニュースが何年も前にありました。

現在どうなっているのでしょう。

このように鎌倉時代との関係で理解している人は多くとも大正~昭和に限定した鎌倉の様子を知る人は少ないことでしょう。

おそらく別荘地的な要素を持つ土地だったのではないかと想像していますが、調べてみると、やはりそのような要素をもった土地であったようです。

当時、東京から鎌倉までどのくらいの移動時間がかかったものかわかりませんが、現在では1時間程度の距離です。

昨今では海外からの観光客の方も多く訪れているそうです。

我孫子

我孫子は、文化人が集まった土地として知られています。それがちょうど北の鎌倉と呼ばれた頃だった模様です。(柔道の創始者としてで知られる嘉納治五郎のに誘われてという人もいたようです。嘉納治五郎は、柔道家でもあり、教育家でもあったそうです。)

つまり、当時の文化人たちにとっても、我孫子は保養の地としてあったということなのでしょう。どなたが、北の鎌倉と称したのかそれはわかりません。

いつも不思議に思うことですが、文化は中央に集中するばかりでなく、各所に築かれています。人がいっぱいいるから文化が栄えるということではないのでしょう。何か文化を育む土壌のようなものが背景にあるのかもしれないと感じます。

常磐線

当時、東京から我孫子へのアクセスはどのようにしていたのでしょう。常磐線が当時から開通していたのでしょうか。我孫子駅の歴史を調べてみると、1896年とあり、当時は日本鉄道土浦線の駅であったそうです。

つまり明治29年頃には土浦~田端間で運行があったようです。白樺派が集まった時代はもっと先の事です。当時のスピードですから、ひたち号のようにはいかないと思いますが、半日もあれば我孫子についたのではないでしょうか。