無観客・無配信ライブ

新型コロナウイルスの関係で現在多くの場面において、普段とは別な形での会議開催なり、コンサート開催なりが行われています。

無観客でライブを配信したりするアーティストも多くなっています。

無観客・無配信ライブは心理療法の元型

無観客・無配信・・・さて、この響きから直ぐに状況を理解できないものだとは思いますが、これは間違いではありません。

あるお笑いコンビが実際に企画・予定していたそうです。(中止となったそうです)

つまり、お客さんは入れず、はたまたインターネットを通じての配信も行わないライブという意味に他なりません。

ライブ自体はいつも通り行うけれども、それを見ることはできないライブです。

それにどんな意味があるのかと疑問を呈さずにはいられないという人もあるでしょう。そして、その疑問はよくわかります。

我々が考えていることとは別な意図があってのことかもしれませんが、無観客・無配信ライブは、その人らしくあることを確認できる時間となるのではないでしょうか。

武人で言うならば、修練ができない日でも道着に着替えて過ごす人などが、かなりの数日本にいらっしゃると想像しています。

道端の花我々は、誰も聞いていなくとも、たった一人で食事をとる場合においてもさえ手を合わせて、「いただきます」と声にするものです。神仏の類や、知り得ない生産者や物流関係者の誰かに伝える感謝という意味も多々ありますが、一方で自分自身への何か大事な行いという面もあるのではないでしょうか。

自分自身が道(タオ)になるアメフラシ男

心理療法の一つの元型をアメフラシ男のエピソードをもって説明されることがあります。

これは中国の古いエピソードを心理学者のカール・ユングがリヒャルト・ヴィルヘルムから聞いた話とされます。

その詳細には触れませんが、つまり心理臨床家自身がブレた状態にあっては良い仕事はできないもので、自分自身を整えることにまず専念する必要があります。

もしどこかの組織の中でカウンセリングを実践する時に多額の謝礼を積まれたらどんなことが起きるでしょうか。

人によっては、こんなにお金をもらうのだったら1秒も無駄にできない!などと妙に力の入ったカウンセリングになってしまうのではないでしょうか。

例えば、早く成果を出さねばなどという方向に走ったならばCLのペースを尊重することから大きく外れてしまうことになりかねません。

つまり、そんな状態では良いカウンセリングはできないものですから、まずはカウンセラー自身がプレーンな自然体に戻る必要があるのです。

これは当然、お金を積まれた場合に限りません。

災害時に支援に入る機会が心理臨床家にもありますが、その場合カウンセラーの個人的な思いが強く出てしまったらどうなるでしょう。

人を支援したいという熱い情熱は尊敬されるものですが、しかし単純な事ではないように思います。

もしかしたら厚かましいカウンセラーとして映るのではないでしょうか。

まずカウンセラーがタオになる必要があるのではないでしょうか。

関連:自分自身の自然体を再確認する場所として