あんな事が起きて不吉な予感がする・・・しかし実は身代わり鈴だった

不吉な事が起きると私たちは、何か悪いことが起きる前触れではないかと不安になることがあります。

特段、宗教心が強いわけでなくともこのような気持ちに日本人はなりやすいのではないでしょうか。

もしかすると、生活の中に宗教性が溶け込んでいる文化なのかもしれません。

さて、不吉な事が起きたときは、本当に何かの前触れなのでしょうか?

大事にしていた壺を落として割ってしまったとき

もし、先祖代々大事にしてきた壺がある時割れてしまったら、それは確かに穏やかな気持ちでいられそうにはありません。

幾らするとか、掃除が大変であるとか、そのようなことは抜きにしても、そういう壺が木っ端微塵に砕け散った姿は悲惨に映るでしょう。

木っ端微塵に砕け散る様からは、何も希望を見出せませんが・・・しかし・・・

それには意味があった・・・

単に、悪い事の前兆として壺が割れたと捉えることもできますが、日本人はもう少し別な捉え方を昔から自然としていたようにも思います。

いつしかそれは忘れ去られたかのようでもあります。

身代わり鈴

お寺の身代わり鈴どこかのお寺だったでしょうか、「身代わり鈴」なるものが売られていました。

手に取ってみると、それが何であるかがすぐにわかりました。

名前の通り、身代わりに砕ける鈴のことだったのです。

お守り代わりにそれを、バッグやらに結んだりして持ち歩くのです。キーホルダーのようにも使えそうでした。

そして、鈴の存在を忘れたような後になって、鈴が無くなっていることに気づかされたのです。

いつの間にか、鈴はなくなっています。きっと身代わりに砕け散ってくれていたのでしょう。

もしかしたら交通事故にでもあっていたのかもしれません。

それを鈴が引き受けてくれたということなのだと思います。

壺は一家の災難を引き受けて砕けた

先ほどの壺の話しのことを考えていると、この身代わり鈴のことを思いだします。

壺は、一家に訪れるはずであった不運を引き受けてくれたのではないか、あるいは砕けて知らせてくれたとも言えそうです。

日本人は無宗教と呼ばれがちですが、自然と宗教性に支えられている民族ではあると思います。

昔の人は、こんな風にして自らの気持ちを保ってきたのではないでしょうか。

科学的に、壺が割れることとその先に悪いことが起きる因果関係の確立を算出して安心するのも一つだと思いますが、どこかしっくりこない人も多い事でしょう。

身代わり鈴という言葉の響きを聞くと、どこか腑に落ちたような気持になってしまうのが不思議なところです。