便利さを手に入れることは何かを失っている側面も持っている

我々の文明社会では、進歩の方に目が向きやすいものです。生活が便利になるものが開発されたら、そこに意識が集中するのは当然のことだと思いますし、それまでの何かから解放されるときでもあるので、多くの人が喜びます。

時々話題になることですが、このような時、一方で我々は何かを失ってもいるようです。

代わりに失ったもの

即席料理例えば、食品は数十年前と比較して、多くの多様な商品が開発・浸透されてきました。

夏に冬の旬な物を手に入れることもできれば、その逆も可能になりました。コンビニエンスストアに出掛ければ、たいていのものは手に入りますし、飲食店では多くのメニューが用意されています。いつからか我々の生活に浸透したカップ麺や缶コーヒー類は特に画期的だったと思います。

目玉焼きが売られている光景はまだ見たことがありませんが、秋刀魚が既に焼かれて売られている光景は目にしたことがあります。

秋刀魚の煙を失った

秋刀魚が既に焼かれている時、我々は秋刀魚を焼くときに出るたくさんの煙を見ることはなくなります。あの煙の扱いは確かに厄介ですが、あの煙によって食欲を大いにそそられていたようにも思います。秋刀魚を早く、手軽に食べたいという気持ちには応えてくれますが、どこか秋刀魚の魅力を失っている面もあるのでしょう。(焼いた秋刀魚を売ることが悪いと言っているのではありません。)

カウンセリングにおいても重要な視点

このような視点はカウンセリングにおいてもどこか大事なものだと思っています。カウンセラーが何かを肩代わりしてしまう時に、CLは自分でそれを行う機会を奪われてしまっているとも言えるわけです。

厳しくすること

時に、子育てや教育において厳しくすることが悪いこととして挙げられるものですが、厳しいことは全く否定されるべき事でしょうか。

極端な言い方になってしまいましたが、多くの人が知るように、やはり厳しさにも意義が十分あるもので、厳しさを抜きに、子育てを進めることは非常に困難なことではないでしょうか。

もし、まったく子供たちが厳しさを経験しなかったら、その後どのようなことが想像されるでしょう。生きていくだけでも我々はたくさんの苦難に出会うものです。どんんなに気を付けていても、病気になることもあれば、仕事を失うこともあります。

厳しさを体験しないままで、このような苦難に向きあえるものでしょうか。

このように考えると、厳しさをなくすことは、子供たちがたくましさを育む機会を奪ってしまいかねないと言えそうです。